参考:固定編成化前の形態について

 

 

(1)組成両数

(2)編成齢

(3)車両の所属

(4)当時の車両に関する情報・考察

 

 

(1)組成両数

地下鉄車は昭和2年の開通時以降、昭和9年の新橋延新時まで基本的には単車で運転されていた。
当初は新橋開業で2両運転とする計画があったが、予想よりも利用者が少なく、正月等に増結運転を行い2両編成とした程度であった。

これに対し高速車は昭和13年の開業時より2両運転、新橋延新時である昭和14年より2〜3両での運転が行われたとされているが、単車での走行記録も存在している。

両社の直通運転が始まって以降は以下のような運転を基本としている。

昭和14年〜 ラッシュ時3両・日中単車
昭和16年〜 ラッシュ時3両・日中2両運転
昭和17年〜 平日3両運転
昭和21年〜 終日3両運転
昭和30年〜 ラッシュ時4両・日中3両
昭和31年〜 ラッシュ時5両・日中2,3両
昭和32年〜 日中4,3両
昭和35年〜 ラッシュ時6両・日中4両
昭和36年〜 ラッシュ時6両・日中5両
昭和40年〜 終日6両化

なお、昭和20年頃の終戦時に稼働車両数の関係で単車で運行した時期があったようである。

 

 

(2)編成例

組成については特に基本組成もなく様々な形式が連結されていたが、以下のような制約、または組成傾向が存在した。

・昭和34年までは100形は他形式との混結不可(後述)であった為、昭和33年以前は100形のみで組成される。
・固定編成化前の2000形は基本的に番号の連続する2両を背中合わせとしたものが1単位であり、編成の両先頭に出るような組成をとるのは固定編成化後である。
・上記の例外として、昭和39年より実施された1200形の中間化改造車(電動車)については2000形ペアの中間に挟み、3両組成を基本(2000-1200-2000)とする傾向があった。

昭和20年代の組成例

1100-1200
1000-1200-1200
100-100-100

昭和30年代の組成例

100-100-100-1700
1700-1700-1600-1700-100
100-100-2000-2000-1600
1700-1700-1600-1700-1700
2000-2000-2000-2000-1400
1200-1200-1000-1000-1300
2000-2000-1200-1300-1200
1500-1700-1800-2000-2000

 

 

(3)車両の所属

元々2社によって運転が始まった事もあってか、保守については上野・渋谷の両工場(後に検車区化)により行われており、それぞれ所属車両を持っていた。
明確な変遷ついてはっきりとしたものはないが、昭和30年代前半の所属車両は以下のようになっていたと記録されている。

渋谷所属 100形 1200形(1231-1250) 1500形 1600形 1700形 1800形 1900形
上野所属 1000形 1100形 1200形(1251-1254) 1300形 1400形

昭和30年代後半になると1200形は全車上野所属となり、上野所属であった1000形の若番車は渋谷所属となるなどの変化があったようである。

 

 

(4)当時の車両に関する情報・考察

【1000形】

1001-1010までは自動連結器を備えていたが、1011以降は連結走行時の不都合を考え密着自動連結器に変更された。
これに併せ1001-1010までの車両は昭和5年に密連化が行われ、同時に密連化による走行時の前灯の干渉を防ぐ為、屋根部に切欠改造を実施している。

先頭腰部に取り付けられている安全柵は「安全畳垣」と言う。連結した車両間で交互に接続する転落防止用の部品であるが、これらは戦時中の金属回収により昭和14年頃までに順次取り外されている。

1000形の車内は基本的に鉄製部品により構成されているが、ドアは木製である。これは昭和25年から鋼製ドアに交換されるようになった。
また、ウィンドシル及び台枠部の外板を後年溶接により交換修理している為、時期によってこれらの部分のリベットが無くすっきりとした車体になっている。

 

 

【100形】

100形は元々制御回路電圧が地下鉄車と異なり、連結器の空気管配列も地下鉄車とは逆になっていた為、長年100形同士でしか連結ができなかった。
昭和34年に制御回路を変更して地下鉄車からの制御を可能としたほか、同時に電気連結器の配列変更等も実施して他系列との混結が可能となった。

ブレーキ弁は運転台に設けられたバイパスコックにより自動ブレーキと直通ブレーキ切り換えて双方使用できる構造になっていたが、営団化以降はコック切換失念で発生した事故により使用を中止し、自動ブレーキのみの使用となっている。

このほか100形は当初、赤坂見附付近の急こう配走行用に発電ブレーキも搭載していたが、これは戦時中に関連部品の故障や部品不足などがあり、昭和19年頃までに使用停止となった。

丸ノ内線在籍期間は昭和37年から昭和43年までである。 101-110までの10両が転属、2両編成で運用され、111以降は銀座線に残留した。
なお、銀座線在籍車が高速色からオレンジ色に塗り替えられたのは昭和23年頃である。

丸ノ内線転籍車に限り昭和39年頃より前灯のシールドビーム化が行われている。これは1000形、1100形、100形のうちでは唯一の例である。
運転に使用する編成端の側のみの交換で、連結面側の運転台に関しては白熱灯のままであったと推測される。

 

 

【各車共通事項】

1000形で昭和25年から実施された木製ドアの鋼製化は昭和32年より各形式においても行われ、鋼製または軽合金製のドアに交換されている。
交換後の形態については1200形の側引戸交換と同様、車号によりドア形態が異なる。確認できた限り以下に車号を記載。

A:下部枠あり(1200形Aタイプと同構造)
1000形/101/102/103/105/108/109/110/117/128/1130

B:下部平板(1200形Bタイプと同構造)
104/106/111/112/113/118/124/129/1122/1128

尾灯の2灯化は米軍の命によるもので、昭和22年より各車に追設された。

昭和36年頃には1800形から採用された「簡易方向幕」と呼ばれる小型の行先表示器を運転士側前面窓上部へ設置している。
これに伴い側面に設置されていた表示板差し(サボ受け)は撤去されている。

昭和33年からは窓枠の鋼製化が実施された。

1000形、1100形、100形は廃車まで全周幌は設置されず、1800形の採用から波及した簡易幌と呼ばれる保護装置のみの設置であった。
これは貫通路の下半分に設置されたロールカーテン状の布を他車と交互に連結させる形態のもので、非常時の通行に限られたものである。

 

 

【戦時塗装】

戦時中に通称戦時色・戦時塗装と呼ばれる塗装に塗られていた時期がある。
一説によると高架上で車体が目立つからという理由によるとされるが、当時は物資の不足等で時代的にも自由に車両の塗り替えが出来なかった為、昭和18年より以下のような最低限の塗装変更がなされた。
なお、終戦後は速やかに元の塗装へ戻されたため、この塗装であった期間はごく短期間であったと考えられる。

・地下鉄車
車体(上部及び腰部)は濃緑、窓周りが黄色、屋根は黒みがかった茶色に変更。

・高速車
屋根のみ黒みがかった茶色(上記地下鉄車の屋根部と同様であると思われる)に変更。

この塗装に関しては伝聞による記録しか残っていない為、かなり曖昧なものとなっている。
特に地下鉄車の塗装については「窓周りは黄色ではなく黄緑色」「濃緑色の塗装は腰部のみで上部は塗分けられていない」「1000形は戦時塗装対象外」等の説があるが、本項では、車両部発行「60年のあゆみ」及び「営団50年史」等を参考に判断し、より正確と考えられる塗り分け内容を記載している。

 

 

【台車形式】

1000形の台車は、1001-1010はNSK-D18形、1011-1021はKSK-3H形である。
それぞれ更新のため後年台車交換が実施され、前者は昭和23年にHA-18形へ、後者は昭和26年および28年にHW-18形へ変更された。

1100形の台車は元々3LH形となっていたが、これはHA-18形であると推測される。

100形の台車は1200形と同様KS-93L形であるが軸バネの形状や集電梁の支持方法などが異なっている。

 

 

【運転関係】

昭和17年より識別の為に正面の運行番号表示に所属区の頭文字をアルファベット(S:渋谷/U:上野)で表記するようになった。これは固定編成化まで実施された。
なお、営団化前の地下鉄・高速直通時代は、地下鉄車が「C」、高速車が「K」をそれぞれ運行番号の末尾に表示していた。

昭和19年には急行運転が行われ、当時の在籍車には車体側面に急行札差しが追加された。組成両数は3両である。

 

注)項目によっては固定編成化後で記載している内容と重複して記載しているものがある


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