形態に関する情報・考察 赤地は直近の更新で追加した部分

(小さいですが)画像を掲載しています。所持している画像が少ないため他の車両のもので代えている箇所があります。

 

 

(1)固定編成化と組成

(2)前灯

(3)尾灯

(4)方向幕(行先表示)

(5)塗装

(6)簡易幌と全周幌

(7)側引戸

(8)側窓

(9)妻窓

(10)車側灯

(11)アップ車

(12)IRアンテナ

(13)レスポンスブロック

(14)台車

(15)空気バネ試作車の番号交換時期

(16)運行番号

(17)シルバーシート

(18)車両番号

(19)車両更新

(20)表記類

 

 

(1)固定編成化と組成

銀座線は昭和41年から終日6両運転を開始したが、この時点では特定の編成や組成はなく、従来のように都度車両を組成して編成とするスタイルを継続していた。
その後1200、1300形の付随車化および中間車となる1500N形が出揃うのに合わせ、昭和43年より車両組成を固定して編成番号を付ける「固定編成化」と呼ばれる施策が実施され、丸ノ内線と共に車号と基本的な組成を定めて運用するようになった。
いわゆる“ゴチャ混ぜ編成”などと形容される編成は、この固定編成化時のものを指している場合が多い。

以降、この構成は昭和58年の01系登場まで続けられ、01系の登場以降は旧型車の廃車と共に車齢の若い車両による組成へ組み換えを行った。
この為、組成としては01系登場前と登場後による2つの時代パターンに大別することができる。


詳細は編成表・編成の変遷を参照。

 

(2)前灯

車両の前灯はもともと白熱灯1灯で製造されていたが、1600形以降の車両については昭和40年〜43年にかけて全車シールドビーム化が行われた。
これは灯具外枠はそのまま使用し、内部の電球部分をシールドビーム化した形態である。
2000形に関してはその後昭和55年〜60年頃に先頭運用車に限り2灯化が行われたが、これは予備の確保が目的であり、通常は向かって左側を使用することとしていた。

銚子・日立電鉄への譲渡車は左右2灯とも点灯させているが、これは譲渡時の改造により2灯点灯が可能となったもので、銀座線時代は切換スイッチによる選択方式であり2灯点灯は不可能であった。
また、前灯も室内灯と同様に第三軌条より直接給電する回路方式であったため、離線により前灯も消灯する構造であったが、譲渡車はバッテリー回路方式に変更され、架線離線の影響は受けなくなっている。

 

(3)尾灯

中間車化以前の1400形までの車両の尾灯は車外に取り付ける吊り下げ式であったが、1500形以降は車体に直接組み込まれたものになり、2000形まで統一された形態のものが採用されている。
この尾灯の灯具はレンズ部分に蝶番がなくボルトかネジによりレンズ部を締結する構造で、形状のほか全体が車体色に塗装されていることで見分けられる。

2000形はB修時に蝶番つきの開閉構造を持つタイプのものに取り換えられた。
無塗装アルミ製で、蝶番がある関係で従来よりわずかに形状が大きいことで見分けがつくが、中間車化された車両に関しては開閉の頻度が低いためかB修車でも原型のまま存置された場合がある。

 

(4)方向幕(行先表示)

行先表示器が導入されたのは1800形からであり、「簡易方向幕」と呼ばれる小型の表示器を運転士側前面窓上部へ設置した。
簡易方向幕はその後の新製車、また1000形等1800形以前の車両に対しても設置され、昭和36年頃には運転台のある車両には全車取付けられるようになったが、これに伴い側面に設置されていた表示板差し(サボ受け)は撤去、増備途中であった2000形も昭和36年頃の新製車からサボ受けを省略して製造となったようである。

簡易方向幕は車号により照明方式に違いがあり、2092号車以前の車両は白熱灯方式、2093以降の車両は蛍光灯方式となっている。
2093号車からは室内蛍光灯方式が変更(スリムライン→ラピッドスタート形)されており、これに伴った変更があったものと思われる。

また、2000形は昭和49年頃より方向幕の大型化が行われるようになり、これに併せ設置位置を運転士側から車掌側へ変更した。
表示順序など内容については方向幕対照表を参照。

丸ノ内線の2000形は中野坂上駅における案内(誤乗防止)の観点から、側面中央の側引戸上部に「方南町←→中野坂上」(「中野坂上←→方南町」)のステッカーを貼り付けた。
ただし、このステッカーが貼られていた期間は非常に短く、引退を前にした平成4年末頃からの数か月程度であり、元々試験的な意味合いで貼り付けていた可能性も考えられる。

2000形での効果が認められたのか、後任の分岐線用の500形、02系の80番台と、以降の区間列車用の車両にはほぼ同じ意匠のステッカーが貼り付けられている。

 

(5)塗装

戦後車体色を選定し、昭和24年より車体全体はオレンジイエロー、雨どいより上部はインディアンレッドと呼ばれる赤茶色に塗装する事に定められた。新車としては1300形からこの塗装となった。例外は1500形および1600形の1684号車までで、これらは屋根の構造上新製時から一貫してオレンジ一色に塗られている(前頭部・および肩部までの可能性も考えられる)。
また、特殊な例として1500N2形のM1車のみ、上雨どいより上部は銀色に塗装されて落成した。これは、室内温度変化に与える影響を調査する目的であったとの事であるが、落成後の塗装について初回の塗り替えまで銀色のままであったのか、それより前に通常の塗装に塗り直されたのか、不明な点がある。

丸ノ内線に転属した2000形は装いを変え、スカーレットメディウムの車体に白帯を入れているが、サインカーブ(正弦波)は取り付けられていない為に本線車とは少しイメージが異なっている。
白帯についても正面は本線車より回りこみが多く、非常扉の手前まで回りこんでいる。妻面については帯のまま貫通扉の手前まで回りこんでおり、本線車のようにサインカーブに合わせた曲線状にはなっていない。

車体の塗装は概ね4年周期で塗り替えが行われていたが、昭和59年塗装車からは簡略化の為に2色の塗り分けが廃止され、以降は全車オレンジ一色に塗られるようになった。
切り替わりの時期となる昭和60年代は2色塗りの編成と1色塗りの編成が混在して走っていたが、塗装の塗り替えは編成ごとに行われていた為、編成内での塗装は基本的に混在せずにどちらかに統一されている。

ただし例外がある編成も確認されており、例えば2067,2068を先頭とする第40編成は、昭和59年〜61年まで先頭車は1色、中間車は2色の塗装になっていた事がある。
これは昭和59年に車両自動塗装装置が導入された際、同車を使用して1色塗装を試行した為と考えられ、他にも何らかの理由により例外となる編成が存在した可能性もある。

なお、2000形の場合、2色塗装車は前灯の形態により灯具の塗り分けが異なり、1灯の場合灯具はインディアンレッド、2灯の場合灯具はオレンジイエローに塗装されている。


床下については2000形までの車両は機器類は黒、台車は昭和35年頃までに製造された車両は黒、昭和37年頃の新製車からはグレーに塗装されており、その後、概ね昭和50年頃には黒塗装されていた全車両の台車がグレーに変更されている。
1500N形については新製時から機器、台車共にグレーとなっているが、昭和50年代後半頃からは2000形においても主開閉器や低圧接地箱など機器の一部がグレーに塗装されていた場合がある。

貫通幌は1500N1形の新製時のみ、ホロ布を含めた幌の内外が全てオレンジ色であったが、後年ホロ布は張り替えられてグレーになっている。これ以外の車両は当初よりホロ布はグレーであり、幌金具(幌枠と接する端部の部分)のみ車体色に塗装されている。

 

(6)簡易幌と全周幌

もともと新製時より全周幌が設置されていたのは1500N形のみで、2000形までの車両には取り付けられておらず、1800形から搭載された簡易幌と呼ばれる保護装置のみの設置であった。これは貫通路の下半分に設置されたロールカーテン状の布を他車と交互に連結させる形態のもので、非常時の通行に限られたものである。
簡易方向幕と同様、順次全車に設置される事となった。

全周幌化が行われたのは昭和38年から41年にかけてで、1900形以前の車両は両妻面、2000形については切妻面に幌枠が設置された。
2000形前面への設置は、編成の中間に組成する為の一部車両を除いて基本的には設置されていない。
前面への全周幌枠を設置する場合、貫通路部分のアンチクライマーは撤去されて左右に分割されたような形態となる。これは幌の設置にあたりアンチクライマーが干渉する為であるが、同様の理由により貫通扉左右にある手すりもやや内側へ向けて設置しなおされており、先頭部への設置は大がかりな改造が必要になっている。

全周幌設置後、簡易幌は一部部品が撤去された車両も存在したが基本的にはそのままとされ、昭和40年代から50年頃にかけて完全に撤去された。残存時期が長期にわたっており、撤去のタイミングについても車両によりバラバラとなっている。

編成を分割した際、幌は1端側へ収納され2端側は幌枠のみとなる。これは丸ノ内線へ転属した2000形でも同様で、2端側へ収納される本線の500形系列とは逆向きとなっているようである。

開戸タイプの貫通扉となっていた1500形〜1700形については安全面を考え昭和50年頃に貫通扉を撤去した。(1200形〜1400形は中間車化の際に一部を除き撤去済)

 

(7)側引戸

従来、全ての営団車のドア窓は側窓と上下寸法を揃えたものとなっていたが、東西線の5000系が登場して以降、銀座線では昭和43年に製造された1500N形より、引き込まれ防止の観点から5000系の形態に準じた小窓のドアが採用されるようになった。

在来車においても1300形〜2000形の一部に小窓のドアとなった車両が存在していたが、これは車両更新(B修)でドアを新品に交換していた為で、1500N形の製造に併せ、同時期より更新車のドアは小窓のものとされた。

一方、1500N形が導入される昭和43年よりも前に車両更新(B修)を受けた車両では大窓のままドア交換が実施されており、この影響により1200形に関しては大窓のまま末期まで残った車両が多く、1300形と1600形では切り替わりの時期に更新が行われていた為か大窓と小窓の車両が存在し、1300形の中にはデザインを1600形・1700形と揃えたものも存在した。

上記の背景もあり特に1200、1300形のドアについては形態がいくつか存在するため、当サイトでは以下の4種に分類した。

A:大窓タイプ1(角型2段窓 下部に枠のあるもの)
B:大窓タイプ2(角型2段窓 下部が平板状のもの)
C:大窓タイプ3(隅丸2段窓 1500〜1700形の原型扉と同デザイン)
D: Hゴム支持(小窓タイプ)

 

(8)側窓

本来は鉄製の窓枠で車体色に塗装されていた。
昭和52年の車両更新(B修)車からユニット窓化が更新に盛り込まれるようになり、ユニット窓となったものは無塗装アルミサッシの窓枠になっている。
これは同年より客室内などの塗装をなくす「車内無塗装化」が推進された事によるものに関係し、ユニット窓化同時にに車内内板の化粧板化なども行われた。

昭和52年以前に更新された車両においては基本的に窓枠は鉄製のままであったが、一部には後年(〜昭和58年頃)になってから改めて車内無塗装化改造を単独で実施した車両もおり、この場合は廃車まで短期間ながら無塗装アルミサッシの姿になっていた事が確認されている。

 

(9)妻窓

2000形の妻窓は車両に関係なく全車@側が開閉できるようになっている。これは妻面の貫通扉の開く方向が一定にしてある(車両の向きに関係なく全てA側へ向けて開く)為であり、この関係でA側の妻窓は戸袋となる為固定窓となっている。

開閉可能窓は側窓と同様、塗装された鉄製の窓枠となっており、形状としては落とし窓(一段下降窓)になっている。
車内無塗装化の推進により、昭和52年の車両更新(B修)車から側窓同様アルミサッシ化されたが、アルミサッシ化後は原型の形態に合わせた一段下降窓の場合と、側窓と同形態の二段窓に変更された場合の2パターンが存在するようになった。

下降窓収納部の腐食対策や工法の簡略化等、理由についてはいくつか考えられるが、 昭和52年〜昭和54年の更新車は一段下降窓、昭和54年以降の更新車は二段窓になっている傾向がある為、何らかの理由により更新途中から開閉方式が変更されたものと思われる。

なお、2000形の落成時の妻窓は全車一段下降窓である為、塗装窓で二段窓だったパターンは存在しない。
唯一の例として存在するのは1500N形で、1500N1形は妻窓は塗装二段窓である。(1500N2形では無塗装アルミサッシ二段窓になっている)

1200形〜1400形では中間車化後に妻窓がHゴム支持となっているものがあるが、これは戸袋窓のHゴム化と併せて実施していたものである為、戸袋窓と妻窓の形態はどちらも同じ処理となる。

 

(10)車側灯

2000形までの車両は落成時戸閉表示灯のみ設置されていたが、後年非常報知器(非常通報器)の動作、および過負荷を判別しやすいよう表示灯が2つ追設された。1500N形は新製時より全て設置されている。

配列は上から戸閉(赤)・過負荷(無色)・非常報知(橙)の順であるが、付随車化された1200形および1300形、そして空気車である1500N形のM2車は過負荷表示灯は無く、戸閉・(空間)・非常報知と灯具1灯分を空けたような配置となっている。

 

(11)アップ車

昭和43年の固定編成化に際し、編成出力の均一化の為、付随車化された1200、1300形の電動機を使用して1700形の一部を4個モーター化した「出力増強車(通称:アップ車)」が登場した。
識別の為に車号ナンバーの先頭には「+」の記号が加えられている。付随車の場合は「○」の記号である。

 

(12)IRアンテナ

昭和40年からIR(誘導無線)方式による列車無線の使用が開始され、前後して各車に棒状の壁面アンテナが設置されるようになった。設置は1500形〜2000形までの形式に限定し、運転台に対してアンテナが1本づつ必要となる(運転する方向に対して各1本が必要となる)為、両運転台車では2端側の左右前面窓端に1本づつ計2本、2000形では妻面に対して左側(運転台と同じ側)の妻窓端に1本を設置している。
丸ノ内線の2000形は通信ケーブルの位置関係から昭和50年代半ばより前面にアンテナを増設し、本線の500形と同様見附の2本構成となっている(運転士側前面窓端と同側の妻面に1本づつ計2本)。

なお、線路間送受信用として床面にもアンテナが設置されているが、これについても後年(昭和50年前後)追加設置されたものである。

 

(13)レスポンスブロック

昭和43年の固定編成化の時期に、各編成の渋谷側先頭車の前面腰部に20cm四方程度の灰色の箱が取り付けられるようになった。これはレスポンスブロックと呼ばれる列車の運行番号を検知する装置の取付枠である。
通称「レスポン」とも呼ばれるが、各列車に運行番号の情報が入った素子(レスポンスブロック/列車番号車上素子)を取り付け、これを地上装置で読み取ることで、列車位置の情報と組み合わせてどの列車が今どこにいるのかを指令所の運行表示板に表示させていた。

前述の取付枠(列車番号車上素子箱)に、当日の運用ごとに運行番号の書かれたレスポンスブロックを差し替えて使用する。
仕組みは共振コイルとループアンテナの組み合わせで、廃車まで取付枠(素子箱)は残されていたが技術の進歩により平成3年頃からは使用されなくなった。

このレスポンスブロックは丸ノ内線ほか有楽町線までの各線でも使用され、日比谷線では妻面、東西線以降は床下に設置されていた。銀座線においてもごく初期においては日比谷線のように妻面に設けられていたが、実用上の問題があり前面部に取り付けられる事になったようである。

丸ノ内線では本線のみで分岐線では使用されていない為、丸ノ内線の2000形には取りつけられていない。

 

(14)台車

1200形〜1400形は経年の為昭和50年〜52年にかけて台車の交換を行っている。
同様に2000形の2043号車以降についてもほぼ同時期に台車更新を行っているが、こちらは形式はそのままで台車枠の取替となっている。

 

(15)空気バネ試作車の番号交換時期

2000形のうち、2043と2044の2両は営団としては初めての空気バネ試作車であるが、当初は2029、2030を名乗っていた。
空気バネ台車の試験後、2045以降の車両も空気バネ方式を採用する事が決まり、この2両は2043、2044と車号を交換、 2029〜2042までがコイルばね車、2043以降は空気バネ車と台車形式ごとに車号を揃えた格好になっている。

文献等ではこの車号交換が具体的にいつ頃行われたものか明確でない記述が多いが、竣工から1ヶ月後の昭和35年3月には車号交換後の姿で運用されている記述が当時の営団社内報にあり(第65号)、竣工時には既に車号を交換していたと考えられる。
なお、この関係で2029と2030は2000形のトップナンバーであるが、次車としては2次車に分類される。

2000形の空気バネ採用に先立ち、昭和34年に1500形で試作台車による試験を行ったという記述がある。

 

(16)運行番号

運転士側前面窓上部に運行番号を記載した札を掲げている。これはレスポンスブロックに表示された番号と同一となる。
この運行番号札は運用ごとに固定された数字が印字されているものである為、何らかのトラブルで運用を変更する必要があった場合の備えとして裏側が黒板状になっており、運用番号を手書きで記入して表示できるようになっている。

固定編成化以前は列車番号に倣い運行番号の末尾に所属区を示すアルファベット(上野:U/渋谷:S)が書かれていたが、固定編成化後は所属が上野へ統一されたのか数字のみを表示している。

 

(17)シルバーシート

現在でいう優先席であるが、昭和50年より各編成先頭車の妻面寄り両側の座席に設定された。当初座席部分の側窓と妻窓に室内からステッカーを貼り付けたが、すぐに外側からも識別できるよう外板戸袋上部にもステッカーを貼り付けた。
1900形については車端部の座席が無くシルバーシートを設定していなかった。後に座席の1/2をステッカー表示したという記述もあるが、1982年時点で車外表記もない為、掲示方法や座席の様子など、実際どういう形態となっていたのかは不明。

 

(18)車両番号

初期の営団の車両は基本的に形式に関係なく車両番号の下2桁を通しで付ける付番方法をとっていた。
車両数が判別しやすいという理由から採用されていたと言われており、東京地下鉄道時代からしばらくこの付番方法にならっていたが、車両数の増加により4桁の形式では数字が足りなくなったり、置き換えによって不便が出るなど実用上の不具合も多くなり、現在は使用されなくなっている。
銀座線車両においても、1000形から2000形までがこの付番方法で製造されているが、1600形が1689に達した後に製造した18両の新車で番号が溢れてしまい、1689の次が1701に飛んでしまったケースのほか、2000形を104両製造した事により番号が2100番台に突入してしまったケースが存在し、途中から番号と形式、両数が一致しなくなっている部分がある。

各形式とその番号は以下の通り。

1000形 1001-1021
1100形 1122-1130
1200形 1231-1254
1300形 1355-1369
1400形 1470-1471
1500形 1572-1574
1600形 1675-1689
1700形 1701-1718
1800形 1819-1826
1900形 1927-1928
2000形 2029-2132

高速出身である100形、および1500N形は通常の付番がなされている。

 

(19)車両更新

営団としての車両の大規模な更新は、昭和39年より1200形、1300形、1400形に施工された「銀座線車両改良」と呼ばれる中間車化改造、及びそれに伴う車両の近代化工事が最初のものとされている。
当時は更新や廃車等を決定する明確な基準が営団内はもとより他社、国鉄共に存在しておらず、営団内部で各種検討を行い、前述の「銀座線車両改良」の内容を参考に、概ね45年での廃車を仮定した長期的計画として、昭和42年に「車両更新基準」を制定。以降はこの基準に沿って在来車の更新を実施している。

更新はA修、B修、C修の3段階とされ、 これらの更新を組み合わせて40年程度で廃車とする周期を基本にしていると言われている。
それぞれの更新内容は時期により僅かに違いがあるが、概ね

C修:窓枠及びドア等のゴム類、パッキン、フェルト、床敷物などの取替
B修:内板、屋根の更新、ぎ装品・配線の取替、ドア及びガラス窓枠、床敷物などの取替

となっている。
A修については更新基準で定められてはいるものの内容については「未定」とされており、現在まで営団車全体を見ても実施された事は一度もない。
その理由としては、車両の代替等でA修まで到達する車両が存在しなかった、またはB修、C修の周期を実施していく中で、材質の向上・高寿命化等によりB修を上回る更新の必要性が無くなった為などが考えられる。

当初設定していた更新基準は6年周期であり

  新造-6年(C修)-12年(B修)-18年(C修)-24年(A修)-30年(C修)-36年(B修)-42年(廃車)

としていたが、前述の通り材質の向上等により見直しが行われ、車両の新造や更新時期に合わせて以下の基本周期に変化している。

 【あ】1200形-2070

  新造-6年(C修)-12年(B修)-21年(C修)-30年(A修)-39年(C修)

 【い】2071-2132

  新造-6年(C修)-12年(C修)-18年(B修)-27年(C修)-36年(A修)

 【う】1500N形

  新造-9年(C修)-18年(B修)-27年(C修)-36年(A修)

【あ】の1500形以降、及び【い】【う】については、実際は概ねA修時期前後には廃車に到達している為、A修は未実施である。

【あ】の1200形〜1300形については、廃車時の車齢が最大で52年に達していた車両が存在する。周期通りであれば上記更新周期を大きく上回り運用されていた事になり、A修も実施されている事になるが、「銀座線車両改良」実施時は更新基準制定前であった為、同改良がA修〜C修のどれに相当するのかは不明であり、また、実施についても周期にはカウントはされていないようである。

その後も周期は延長され、1987〜2016年現在の車両では概ねC修10〜12年、B修20〜25年程度となっている。

なお、銀座線の旧型車におけるB修は通常2両単位で実施されており、編成の両端に来る2両の2000形の仕様が揃っていることが多いのはこの為だと考えられる。

 

(20)表記類

・車号 
銀座線の場合は運転台側妻面の腰部左右、側面中央の側引戸に向かって左側の窓(両開きの場合は戸袋)幕板部に車号が記入されている。
丸ノ内線の場合は運転台側妻面の貫通扉腰部、および側面に対して最も右側にある側引戸に向かって左側の窓(両開きの場合は戸袋)幕板部に車号が記入されており、500形等本線車と位置を合わせた格好になっている。
運転台の無い妻面には車号は記入されない為、2000形の妻面には車号が記入されないほか、中間車となる1500N形は側面にしか車号が無い。ただし、元々運転台のあった1200〜1400形に限っては中間車化後も例外的に両妻面に車号が記入されている。

・検査票差し/検査票
1400形までの車両は1端@側、及び2端A側の側面外板下部に対角に検査票差しが取り付けられている。どちらも検査票が入れられているが、1500形からは検査票差しは片側(2端A側)のみとなった。更に1800形以降は外板取り付けをやめ車内取り付けとなっている為、車外には無い。
検査票は上から全般検査の期限年月、実施年月、実施工場の順に記されている。実施工場は省略記述で中工(中野工場)、小工(小石川工場)の表記となるが、小石川工場が分場となる昭和46年以降は重要部検査までの担当になった為、末期は「中工」のみであったと思われる。

・重量表記
1900形までの車両は1端@側、及び2端A側の側面外板下部、1400形までの車両でいう検査票差しの上に重なる様に重量表記が記入されている。これについては検査票と異なり1500形以降の車両についても2か所に記入されている。
丸ノ内線に転籍した100形の場合は車号と同様に本線車と同じ要領に改められており、2端前面@側の尾灯内側1か所のみとなっている。
2000形は切妻面、1500N形の場合はユニット間の妻面(幅広貫通路側)の向かって右下部隅に記入されている。
重量表記は上から定員、形式、重量の順に記されている。

・塗装施工表記
1900形までの車両は2端前面、@側の下部隅、尾灯の外側付近に記される。2000形の場合は切妻面、1500N形の場合はユニット間の妻面(広幅貫通路側)の向かって左下部隅に記入され、重量表記と線対称の位置関係になる。
塗装施工表記は塗装実施年月と施工会社が枠囲いで記されている。施工会社は省略2文字+「塗」の3文字であり、管理人の知る限りでは手塚塗(手塚車輌)、三和塗(三和車輌)、関東塗(関東工業)の表記がある。
丸ノ内線本線の保存車には日電塗という表記が見られるが、これは日本電装が保存車の塗装を行った為であり、営業車では存在しない表記である。
なお、全て確認したわけではないが新製時の場合はメーカー名(「帝国車輌」「東急車輌」「富士重工」など)の表記が入っている。

・表記色
銀座線は黒に見えるが群青色である。丸ノ内線の場合は車号のみ白色で、他の表記は群青色であるが、100形については車号も含めて群青色である。

 


もどる